Arahabaki Institute of Architecture




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コラム





   ・・・コ ラ ム・・・



 ■ 2011年10月26日 「水と環境」

最近、水と人間活動、特に衣食住との関係性が気になって来た。
太陽と同様、水は人間活動にとって欠かせない存在である。
水の視点から世の中を見てみると、様々な事が目に見えて来る。


 - 水と建築 -

建築を考えるとき、水の問題は、切っても切り離せない。
水と言っても、この場合、狭義に天から降ってくる雨水と考えても良いのだが。
例えば、屋根の形が解りやすい。
雨の多い地域は、大きな屋根が掛かり、庇も深い。
これは勿論、建物を雨水から守る為の、方策である。
そして、雨の多い地域は木材も豊富な為、木材で屋根をかける工法が適している。
アジアモンスーン地帯の建物は、壁を守る為なのだろうか、本当に庇が深く,しかも低い。
それから、もし仮に壁が濡れたとしても、天気になった時に乾けば良いと考えている。
それでもダメな時には、腐った所を取替えれば良い。
実際、自分たちの手で、簡単に取替えられるような構造になっている。
最後の手段は、建替えれば良い。
天皇の住まい(皇居)だけを捉えても、奈良時代以前だけで遷都は50回を越えているらしい。
伊勢神宮は、20年毎に遷宮している。

日本の住宅は、雨が多いためか、通風にも非常に気を使っている。
壁が極端に少なく、柱と柱の間の建具を開放すると、風通しは最高である。
兼好法師の言う通り、「住まいは夏を旨とすべし」である。
古い建物は、床下に湿気を貯めない為、1階の床が高く、開放されている建物が多い。
それから分かりにくいかもしれないが、いわゆる日本家屋などには、居室の廻りを縁側などでぐるりと囲っている物を多く見かける。
しかも、本体部分は空間を大きくし、それに合わせ屋根も大きくしているのに対し、縁側などは高さを抑え、屋根を低くして本体と分けている場合が多い。
つまり縁側などを下屋として扱い、二段屋根としている。
桂離宮も、この形状である。
これも、水に対して理に適った考え方で、下屋の屋根を低くし、屋根を多層構造にする事で、壁や建具を守っている。
実際、少々の雨であれば、障子も破れることは無い。
もし仮に下屋部分が雨にやられ腐っても、下屋だけ建替えればいいと、考えているのかもしれない。
それから、縁側などをぐるりと廻しているのは、勿論夏の暑さ対策でもある。
縁側の低い屋根は、室内への太陽光を遮る。
風は、縁側を通って来る間に、暑さも緩む。

東南アジアで、高床式建物が多いのは、恐らく洪水対策を兼ねているのであろう。
それから、日本も含めたアジアモンスーン地帯で石造建築が少ないのは、身近に良質の石が少ないと言う事も、一因ではないだろうか。
豊富な雨水で石は砕かれ、土になってしまっているからではないだろうか。
日本の場合は、地震が非常に多いと言う事も、石造やレンガ造が発展しなかった大きな要因の一つであろう。

西ヨーロッパの歴史地区は、屋根は掛かっているのだが、庇が短い。
石造りも多いことから、腐った部分は取替えれば良いなどとは、考える必要も無い。
雨の降り方も、アジアモンスーン地帯から見れば、穏やかである。
窓も小さい事から、通風も重要視されていない。
東アジアで言うところの台風は、北アメリカではハリケーン、インド洋ではサイクロンと呼ばれているが、実はヨーロッパには台風がない。
時々、北アメリカのハリケーンがヨーロッパまで脚を伸ばす事があるらしいのだが、規模は小さいし、回数も少ないようである。

勿論、砂漠地帯では、木材は貴重品である。
雨水を流す必要もない事から、フラットな屋根が多い。
材料は日干しレンガが多い。
これは、身近な材料である土に水と藁か動物の糞を混ぜ、レンガ状にこね、これ又身近かな太陽で日干しをした物である。
考えてみれば、レンガを焼こうにも、焼くための木材が貴重品である。
反対に日本で日干し煉瓦を造ろうにも、雨に祟られどうしようもない。
火で焼くレンガに比べ、日干しレンガは強度が弱く、脆そうに思える。
しかし、5階建ての日干しレンガもある事から、想像以上に強度はあるらしい。
ただ、雨に対しては、どの程度の耐久性があるのであろうか。

壁は、日干しレンガを積み、さらに泥を隙間なく建物全面に塗っている。
通気による室内の湿気対策など、考える必要もない。
又、厚い壁は、蓄熱効果があり、夜間の冷え込みに対しても、効果がある。
何しろレンガを積んだだけの構造であるから、大きな開口はとれない。
本来であれば、太陽を避けるために庇があれば良いのだろうが、レンガであれば庇を出すなど、構造的に無理がある。
そのかわり、厚い壁が日射を遮り、庇と同じような効果をもたらしている。
日干しレンガは、中東や北アフリカ、スペイン、それに北アメリカの西側に多い。
やはりどこも砂漠地帯である。

石があれば、大きな物を切り出し、壁と壁の間に梁状に掛け渡す事で、多少は大きな開口が確保出来る。
場合によっては、建物の廻りをぐるりと、回廊を巡らしている物もある。
回廊があれば、日影も出来、入ってくる風も涼しくなる。

家に帰れば靴を脱ぐ日本では、調湿性のある畳が素足に気持ちよい。
欧米の石やコンクリートのような固い仕上げは、素足には固すぎる。


 - 水と食料 -

次に、食料と水との関係も面白い。
アジアモンスーン地帯は、豊富な水を使って、水田で米を作る。
そして、米を研ぐ時もご飯を炊く時も、たっぷりと水を使う。

欧米などの水の少ない地域では、どうだろうか。
トウモロコシにしても小麦にしても、栽培時にあまり水を使わない。
それから、小麦から主食のパンを作る時は、まず製粉をして、こねて、焼く。
この時も、ほとんど水を使っていない。
食べる時も、ご飯はあまりこぼれないが、パンはどうしても口元からボロボロこぼれる。
特にフランスパンは、パン屑をこぼさずに切ったり食べたりするのは、どうしても無理がある。
土足であれば、少々のパン屑は気にならないのだろうが、日本のような履き替え空間では、どうしても気になる。
パンは、やはり土足の国の食文化のような気がする。

麺類も、同じような傾向が伺える。
日本は、ラーメンにしても、そばやうどんにしても、たっぷりの汁が欠かせない。
勿論、焼きそばや焼うどんもあるのだが、あくまでも主流はたっぷりの汁である。
ところが、欧米の主流であるパスタ類は、茹でる時には水をたっぷり使うが、食べる時の水分は、格段に少ない。
水が豊富であるかどうかでここまで違うとは、驚きである。


 - 水と衣類 -

衣食住の最後となったが、衣はどうであろうか。
昔の日本は、着物の裾や袖や襟元があき、足元は草履か下駄である。
風通しが良く、蒸し暑い夏でも、快適に過ごせるように考えられている。
特に日本では、家に帰れば靴を脱ぐのが、生活習慣になっている。
日本で、欧米のように家でも靴を脱がないような習慣になったら、水虫患者は倍増するであろう。
沖縄のかりゆしや、ベトナムのアオザイなど、他のアジアモンスーン地帯の服装は、風通しを重視する傾向が伺える。
もっとも、寒い時には、「風通しが…」などと呑気な事は言っていられないのだが。

欧米は、どうであろうか。
中世ヨーロッパを題材にした映画等を見ていると、タイトな服装が多い。
現代でも、靴やネクタイや袖口のボタンなど、蒸し暑い季節には不快指数が高くなりそうな服装が、主流である。

砂漠地帯は、どうであろうか。
アラブ人がよく着ている、大きな布を簡単に縫っただけのような服は、男性の正装はカンドゥーラ、女性の正装はアバヤと呼ぶらしい。
必ず、頭に布をかぶり、その布は首筋も守るため、長く後ろに垂らしている。
手や脚も、出来るだけ隠そうとしている。
何しろ、砂漠地帯は日影そのものが、極端に少ない。
紫外線から体を守る事は、必須条件である。
服と体の間に空間があるため、日中の暑さだけではなく、夜間の冷え込みから体を守る効果も期待出来る。

以上、水と言う視点から衣食住と言う文化を見てきたが、水は我々人間の生活習慣に、決定的な影響を与えている事が解る。
勿論、例外も多々あるとは思うのだが、水とは面白い物である。


 - 水と文明 -

もう一つ大きく、国、或は文明と言う物を、水の視点から見てみるのも面白い。
メソポタミア文明やエジプト文明、それにインダス文明を見てみる。
現在は、三地域とも砂漠化が大きな問題となってしまったが、文明が栄えていた時代は、土壌は肥え、水は豊富であった。
水がなければ、食料は作れないし、文明が栄えるはずもない。
砂漠化は、人間活動が原因である。
この三地域では、過度な農業で土壌が乾き、森林は人間活動の維持のために伐採され、緑地は森林地帯は極端に減少していった。
その影響で上流に降った雨が洪水となり、下流の豊かな表土を流し去ってしまった。

ギリシャ神殿の遺跡には石しか残っていないが、あの屋根は、木で造られていた。
しかし、今はその屋根を作る為の木が、ギリシャには見当たらない。
又、古代ローマの巨大な円形闘技場コロッセアムの客席上部は、木で骨組みを作り、日除けのテントを張っていたらしい。
信じがたいが、そのような絵が残されている。
つまり、それだけ大きな木が、豊富にあったと言う事であろうが、現在のイタリアに,果たしてどれだけ存在しているのであろうか。
飛行機から見ると、日本の山とは、木々の密度がまるで違うことが、一目瞭然である。
エジプトなどの北アフリカも、かつての繁栄を考えれば、緑豊かな土地であった事は容易に想像できる。
度々、古代エジプトを題材にした映画が公開されているが、どれもこれも砂漠の中のエジプトである。
映画は娯楽であるからそれでも良いのだろうが、何かがおかしい。

日本の場合も、同じような事が言える。
古来、奈良盆地には、数多くの都が作られて来た。
都を遷すたびにまた、多くの建物が造られるのだが、そのほとんどは、檜で造られて来た。
世界最古の木造建築である法隆寺も、檜である。
檜は、建材として非常に優れた性能を有するだけではなく、非常に身近な材料であった。
つまり、奈良盆地は、檜の森だったらしいのだが、今となっては、檜は貴重品である。
もし仮に、日本中の檜を集めて東大寺南大門を造ろうとしても、あれだけ立派な檜は残り少なく、恐らく無理であろうと言われている。

さすがに日本は、雨量が多く砂漠化とは無縁であり、むしろ庭の雑草取りに四苦八苦するくらいである。
しかし、単純に無縁とも言っていられない。
やはり、人間活動は地球環境に直結している。
日本に運ばれてくる大量の木材や食料が、世界の環境に影響を与えている事は、疑いの余地がない。
古代文明の栄えた地域が、砂漠化したのと同じような道を、地球全体が辿って行かなければ良いのだが。
歴史に学ぶべき事は、まだまだ沢山ある。








 ■ 2006年10月16日 「地域建築と建築教育を考える」
  (このコラムは財団法人 青森県工業技術教育振興会(八戸工業大学内)からの依頼で、
   会報18号に寄稿した原稿を元にしています)

 1. 「地域建築」とは
私は、弘前で生まれ育ち、仙台の大学(東北大学)と、設計事務所(針生承一建築研究所)で建築のイロハを学んだ。
東北大学では、建築(特に設計)の面白さを知った。
設計事務所では建築家としての態度、生き様を教えられた。
一つ一つの建築の設計を通し、様々なものを学び感じ取った。

それから、弘前に戻り建築家として設計事務所を開設し、もうじき13年になる。
アッという間だったような気がする。
ここではじめて、地域という現実と真正面からぶつかり合う事になる。
勿論、仙台でも「地域建築」と言うものをやって来た。
針生承一建築研究所は、他の設計事務所よりも地域建築とどっぷり、取り組んでいたと自負している。
しかし、針生さんというボスが上にいたと言う事、いずれ仙台を離れ弘前に戻るであろうと言う、一種の出稼ぎのような現実逃避感が、どうしても漂っていた。
甘えである。

弘前に戻ると言う事は、弘前という地域すなわち現実から逃げないと言う事であり、生涯を通して格闘すると言う事である。
格闘とは、地域の中に埋没することなく、地域に漂う建築的な閉塞感を取り払い、もがき、苦しむことである。
そして楽しむ事である。
優れた建築を創るために。
最後に笑うために。

では、弘前あるいは青森県という現実は、どうであろうか。
例えば、雪と寒さがある。
一般住宅であれば、その多くが高気密高断熱を標榜し、四角四面の無落雪屋根である。
空間の豊かさは一切見られなく、息苦しささえ感じるのだが、ほとんどの施主はそれで満足している。
これまでの住まいが、冬寒く雪に悩まされてきたのだから、それも無理はない。
しかし、私はあえて、雪や寒さを過大評価しないようにしている。
冬の過大評価は、春・夏・秋の過小評価につながる。
例えば、九州では毎年台風の被害を被り、東京であれば夏の酷暑は耐え難い。
弘前の雪や寒さも、これらと同じ普通の自然現象の一つと考えても、良いのではないだろうか。
大事なのは雪と寒さ対策ではなくて、そこに現れる空間であり、そこで行われる生活や様々な活動ではないだろうか。
そう考える事で発想の自由度は増し、次のステップが見えてくる。

もっとも、私がこんな生意気な事を言えるのも、先輩方の技術的な積み重ねがあっての事であり、雪と寒さ対策に設計の多くの労力を割かざるを得ないのも事実である。
つまり、雪と寒さに対する建築的破綻が許されるはずもないが、そのことで空間としての質が犠牲になって良いはずがないのである。
あくまでも雪と寒さは数多くある設計条件の一つであり、当たり前に解決しなければならない問題なのである。

しかし、この地域に漂うもっと大きな建築的閉塞感は、入札問題である。
ご存じの通リ、地方自治体は建築の設計者をほとんど入札で決めている。
施工の為の入札であれば、私は否定しない。
図面があり、仕様書があり、監理者もいる。
従って、出来上がる建築は一定のレベルが保証される。
しかし、設計の場合、その保証がまるでない。
役所の入札仕様書で決めているのは、概略の床面積と図面枚数程度であり、これで果たしてどうやって建築のレベルが保証されるのであろうか。
入札の参加者を役所が決める際に、ある程度の選別がなされる事もありうるかもしれないが、実際には、よほどの欠陥建築でも造らない限り、順番で指名されるはずである。
社会的文化財である建築の設計者を決めるのに、金額の多寡で決める入札方式が、馴染むとはとても思えない。
無責任にさえ感じるのだが、どうであろうか。

例えば、どこかに広場を造り、そこに彫刻を置くとする。
果たして、材質と大きさを決め、彫刻家を呼んで入札をするのであろうか。
そんな話しは聞いた事がない。建築も同じである。
いや、それ以上であるともいえる。
彫刻を取り替える事は出来ても、建築を取り替える事は出来ないし、その影響力は彫刻以上である。
建築の設計者は、その内容によって決められるべきものであって、金額の多寡で決められるべきものではない。
例えばプロポーザル方式であり、コンペ方式であり、QBS(資質評価)方式であり、或いは第三者機関による設計者選定委員会である。
限られた予算の中で、より優れた物を創るという事は、地域に対し責任ある立場の自治体にとって、当たり前の職務であり、義務ではないのだろうか。
要は、行政の意識の問題である。



 2. すばる103 ここをクリックして下さい

ここで、実際にプロポーザル方式でやらさせて頂いた仕事を、二つ紹介させて頂く。
これは、弘前市に隣接する相馬村が、新たに整備した103戸の住宅団地「すばる」に計画した集会所である。
東隣は、築山のある芝生広場に接している。
「宴の広場」は既存の芝生広場と一体化し、築山と集会所で柔らかく囲まれた形態である。
「宴の広場」と集会所の中間領域である「こみせ」は、雪・雨・夏の太陽から守られた空間を提供すると共に、内と外との活発な動線を促す機能も合わせ持つ。
「こみせ」と平行する「広縁」は、外からも気楽に入れるよう、一部を大きな「土間」としてある。

基本的には木構造であるが、開放的な空間を実現するため、34本のRC柱に全ての水平力を負担させ、壁を構造から開放している。
屋根は、テンション材としての鉄筋と方杖との組合せで、軽やかに雪荷重を受ける。
中折れの片流れ屋根は、「宴の広場」への方向性を暗示すると共に、光と風を内へと導いている。

この集会所の建設のため、計5回のワークショップが開かれている。
3回目までは、どのような集会所が良いかが話し合われたが、この時はまだ、設計者が決められていない。
ここで、今までのワークショップに参加した建築家5人を対象に、プロポーザルが行われ、公開審査を兼ねた4回目のワークショップで、幸い我々の案が採用された。
5回目は、「みんなで名付け親になろう」と題して、施工中に行われている。
館名は「すばる103」、室名は「わいわい」「のほほん」など、楽しい名前が付けられた。

ここでは、毎年夏祭りが開催されており、いつも案内状が届く。私も家族そろって、差し入れ持参で参加させて頂いている。
「こみせ」には様々なコーナーが設けられ、「宴の広場」に敷かれたシートの上には、談笑の輪が所狭しと出来る。
内外の空間を自由に使う様は、私の予想以上である。

もし仮に、私共が入札で設計者として選定されていたならば、このように毎年夏祭りに呼ばれるであろうか。
これだけの信頼関係が、住民との間に築くことが出来ただであろうか。



 3. 家族交流施設「悠遊」 ここをクリックして下さい

同じくプロポーザル(県内公開)によりやらさせて頂いた、八戸の青森県立はまなす学園の増築及び改修についても、紹介させて頂く。
この計画は、肢体不自由児施設としての機能に、さらに重症心身障害児(者)施設としての機能を、追加することを目的としている。
既存改修は、一般病棟である二病棟を重症心身障害児施設へ転換させる事と、施設全体の使い勝手の経年変化に伴う機能上の不都合に対応させる為の「対処療法」の二つの側面がある。
施設の運営を継続しながらの改修である。
機能面を充分満足させることは勿論だが、重度の入所者が居住する状況での工事であるから、振動・騒音・工期・安全等を十分すぎる位十分に配慮する必要があった。

増築は、新規に展開する重症心身障害児(者)通園事業(B型)を行う為の、家族交流施設「悠遊」である。
ここに通う障害児(者)の障害は、重度化・複合化し、家族は、不安と期待を抱えている。
こうした状況に十分配慮した上で、計画する必要があった。
増築の家族交流スペースは、大きな空間とすることで、施設としての一体感と空間的シンボル性・施設への期待感の高まりを演出する事を心掛けた。
そのことで、障害児(者)とその家族の不安感・期待感に応える事が出来る。
又、既存の建物に囲まれた狭い敷地ではあるが、敷地条件を深く読み込み、周辺の「あまった空間」を最大限活用する事を心掛けた。
そして、自然の光と風を十分満喫出来るよう、建築を出来るだけ外に開いた。



 4. 自由ヶ丘の家  ここをクリックして下さい

3つ目は住宅を、紹介させて頂く。
土地があって、それに合わせた形で建築が創られてゆく。
普通は、このような順序になるが、この住宅の場合には全く反対であった。
勿論、最初は土地もありそれに合わせた計画をしていたのだが、8月になった段階で、ある事情からそこには建てる事が出来なくなった。
施主は、自分の年齢からその年の12月末には着工する必要があり、無理であればあと数年は建てられない。
しかし、この計画案を気に入り、模型を毎晩のように眺めていた施主は諦めない。
なんとしてでもこの家を建てる、この建築にあった土地を探すと一念発起した。
こうして探し当てたのが、この土地である。
土地に合わせた微調整は必要となったが、むしろ、以前計画していた土地よりもピッタリに思えるような、立地条件である。

話は変わるが、一般に住宅というものを考える時「これがいい、こうしたい」と考えることが多い。
しかしここでは、視点をずらし「これでいい、これで十分」と考え直すことで、新しい可能性が見えてきたような気がする。
素材の種類は出来るだけ少なくし、見えるものは隠さず見せる。
建具は出来るだけ減らし、家財道具は無理に隠さず見えていた方が楽しい。
外断熱であれば、内装はいらない。
しっかりした構造をそのまま見せ、配管・電線も現しの納屋のような空間で十分なのではないか。
必要最小限の間仕切りに囲まれた大きな空間は、極めて快適である。
余分なものをどんどん削ぎ落とすことが、住宅の本来持っている心地よさ(あずましさ)を引き出す。
そんな考え方を、施主と共有しながら計画を進めることが出来た。

ハウスメーカーなどと異なり、我々のような設計事務所に依頼する施主は、個性的な人が多い。
又、自分では普通だと思っている人でも、よくよく話しをしてみると豊かな個性が必ず見えてくる。
住宅の設計は、施主の個性探しでもある。施主が個性的であれば建築家も新たな発想が求められ、自ずと建築も個性的なものとなる。



 5. 「建築教育」を考える

結局、建築家にとって大事なのは建築に対する態度、生き様であると思う。
建築の対象を、グローバルとかローカルとかに区切る必要はない。
現にグローカルという言葉がある位であり、両者は渾然一体である。
そして、建築に対する思い入れが多ければ多いほど、それを実現する時に困難を伴う。
その困難から逃避するか、或いは立ち向かうかで建築及び建築家の存在意義が、まるで異なったものになる。
果たしてその生き様というものを、現在の建築教育の中で伝える事が出来るのであろうか。

大学教育の中で、その一端を修得すると言うのであれば二つの方法が有力である。
一つは、設計課題である。
学生の創作意欲を駆り立てる課題と、より高いレベルに導くエスキースである。
そして、現実にある敷地を対象とし詳細に調査分析することも課題とする事と、二つ目とも関連するが課題と同じような機能の建築を雑誌などから選び出して分析させる事である。
一つの課題に対し、様々な考え方と無限の可能性、及び、そこに至るまでの建築家の格闘の軌跡が、読みとれるはずである。

二つ目は、現代の建築家の生き様を学ぶ事である。
残念ながら、このような授業を一般カリキュラムの中で行っているという話しは、あまり聞かない。
しかし、授業に限る必要はなく、普段、学生と接する中でも十分可能である。
現在出版されている建築雑誌を、研究課題としてもかまわない。
一つ一つの作品に、現実というものに立ち向かう建築家の生き様が投影されている。
地方都市という制約はつきまとうが、活躍している建築家の話を聞く機会や、優れた建築を見て歩く機会を多数設ける事も大事である。

いずれにしても、学生自らが建築家を目指すのだという強い意志と、学生同士の切磋琢磨は欠かせない。
その機会が学内で不足しているというのであれば、外に出て自ら生き様を学ぶしかないと思うのだが、どうであろうか。






■ 2006年6月5日 建築家 前川國男 について
 

ここ数年、弘前の近代建築に関わることが多くなってきた。
最初は、ある雑誌社の企画で近代建築に深く関わった堀江佐吉、今和次郎、前川國男の三人について語り合う対談であった。
三人はいずれも、弘前に深い関わりのある建築家である。
それから、「今和次郎展」に伴って企画された対談と、東京のギャラリー主催の近代建築を巡るツアーに案内役が続いた。
そして現在、NHK文化センター主催の「前川國男の作品見て歩き」という講座に、講師の一人として関わる事となった、等々である。
この講座は、前川の生誕100年に併せて企画された。

今回、講師をするに当り、東京ステーションギャラリーと弘前市立博物館で行われた前川國男展に足を運び、前川國男について書かれた本を何冊か読み返してみた。
それでも物足りず、前川の東京文化会館・東京都立美術館・埼玉会館・埼玉県立博物館、前川の師匠ル・コルビュジェによる西洋美術館(彼の3人の弟子前川國男・坂倉準三・吉坂隆正が協力し後に前川の手で増築を行っている)、同じく前川のもう一人の師匠アントニン・レイモンドによる、聖アンセルモ目黒教会に足を運んだ。
以前から、凄い人だとは分かっていたつもりだが、今回改めてその偉大さを再確認し、再認識した。

 □ □ □ □ □ □ □ □ □

前川は、東京帝大を卒業してすぐ、パリのル・コルビュジェの門を叩き、2年間そこで修行している。
コルビュジェは、言わずと知れた近代建築の巨匠である。
その巨匠の元で修行したのは、彼が初めてである。
いわば、日本の近代建築の先頭を、走っていたと言っても過言ではない。
ここで前川は、近代建築の理念とその美的イメージを、そして何より建築家としての生き様を、身につけて帰ってきた。
しかし、当時の日本の建築体制は、まだ旧態依然の状態である。
前川は、近代建築の旗手という重い使命感から、時には走り、時には立ち止まり、近代建築を確立するために格闘を続けた。
決して逃げることのないその生き様は、「近代建築の闘将」と言われた。

私が大学で建築を学び始めた頃、覚え知った多くの建築家の中に前川國男があった。
それらの中で前川の作品は、どちらかというと地味な存在であり、正直なところ退屈に思えた。
実際、弘前市民会館や博物館を見ても、その第一印象が大きく覆ることはなかった。

しかし、実社会に入り建築を自ら設計監理する立場となって、その印象は徐々に変わっていった。
前川の建築は、時間の経過と共に朽ちることはなく、その空間の豊かさと確かな存在感は、むしろ深まっていくように感じられる。
生誕100年という事もあろうが、先の見えない不確かな今日に於いて、前川が再び高く評価される所以であろう。

 □ □ □ □ □ □ □ □ □

前川がもう一つ高く評価されているのは、建築家としての生き様である。
彼は、絶えず建築家としてのあり方、職能について深く考え、そして行動してきた。
日本が、そして建築が徐々に近代化していく中で、建築家の地位があまりのも低いままであることに怒り、嘆き、建築家としての「自由な立場」を獲得すべく闘ってきた。
建築家の存在が不確かなままでは、建築の質も上がるはずがない。
前川のお陰で、改善された部分は多々ある。
もし、前川がいなかったらと思うと、ぞっとする。
しかしながら、ほとんど進展の見られない問題も、数多く残されている。

例えば、入札問題である。
ご存じの通リ、大部分の公共建築は、設計者を入札で決めている。
図面があり、仕様書があり、監理者もいる場合の、施工会社を決めるの為の入札であれば、出来上がる建築は一定のレベルが保証される。
しかし、設計者の場合、その保証がまるでない。

役所が入札のための指名をする時は、その設計者が過去に設計した建物の内容を基準に決めているのではなく、ただ単に順番に決めているだけである。
指名停止になるような問題を起こさない限り、順番に指名は廻ってくる。
そしてそこでは、予定調和と称し、必ずと言っていいほど、談合が行われている。
建築家として、或いは人間としてのモラルをどこかに置き忘れた状態で、果たして優れた建築を創ることが出来るのであろうか。
このような状況下で行われるのが、入札である。
そして、入札のための仕様書で定められているのは、概略の床面積や必要部屋数と図面枚数程度である。
その条件を満足すれば、後は建築としての最低限の質の確保と、会計検査対策が主要な関心事となる。
この状況下で、建築のレベルが保証されるとは、とても思えない。
社会的文化財である建築の設計者を決める方式が、金銭の多寡によって決める物品購入と同じ入札方式であるとは、信じ難いことである。
例えば、街角の広場に、彫刻を置く事にしたとする。
その時、数名の彫刻家を庁舎に呼んで、入札をするであろうか。
そんな話しは、聞いた事がない。
設計者も、金銭が安いから選ばれたのであれば、その次元でしか設計をしないであろう。
反対に、建築家としての資質や、或いは提案した計画案の内容によって選ばれたのであれば、力を込め、建築を設計し監理するであろう。

前川の志を継ぐべく、少なくない建築家(私も含め)が入札を辞退し、ごく一部の行政が、入札によらない建築家の選定方式を採用しているが、残念ながら大きな流れとはなっていない。
前川が弘前の公共建築を設計する時も特命であったが、現在はその方式を採用していない。

もう一つの大きな問題は、設計施工である。
利益優先の施工会社に、設計という行為が従属するのは、多くの問題を抱えている。
それは、昨今の構造計算書偽装問題を見ても明らかである。
建築家は、施主の利益のために働く。
施工とは独立した立場である建築家が設計し監理することが、様々な問題を解決する第一歩である、と言う当たり前のことが、世間にはなかなか浸透しない。
残念である。

しかしながら、最大の問題は己自身である。
前川の事を調べそして考えている時、「前川の生き様はこうだった。それに対して、お前はどうなんだ?」と、絶えず問い掛けられている、そんな気がしてならなかった。
大きな宿題を、背負ったような気がする。


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