Arahabaki Institute of Archtecture



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コラム

 ■2006年10月16日 「地域建築と建築教育を考える」
  (このコラムは財団法人 青森県工業技術教育振興会(八戸工業大学内)からの依頼で、
   会報18号に寄稿した原稿を元にしています)

1. 「地域建築」とは
私は弘前で生まれ育ち、仙台の大学(東北大学)と設計事務所(針生承一建築研究所)で建築のイロハを学んだ。東北大学では建築(特に設計)の面白さを知った。設計事務所では建築家としての態度、生き様を教えられた。一つ一つの建築の設計を通し、様々なものを学び感じ取った。

それから弘前に戻り建築家として設計事務所を開設し、もうじき13年になる。アッという間だったような気がする。ここではじめて、地域という現実と真正面からぶつかり合う事になる。勿論、仙台でも「地域建築」と言うものをやって来た。針生承一建築研究所は、他の設計事務所よりも地域建築とどっぷり取り組んでいたと自負している。しかし、針生さんというボスが上にいたと言う事、いずれ仙台を離れ弘前に戻るであろうと言う一種の出稼ぎのような現実逃避感がどうしても漂っていた。甘えである。

弘前に戻ると言う事は、弘前という地域すなわち現実から逃げないと言う事であり、生涯を通して格闘すると言う事である。格闘とは、地域の中に埋没することなく、地域に漂う建築的な閉塞感を取り払い、もがき、苦しむことである。そして楽しむ事である。優れた建築を創るために。最後に笑うために。

では、弘前という現実はどうであろうか。例えば雪と寒さがある。一般住宅であればほとんどが高気密高断熱を標榜し、四角四面の無落雪屋根である。息苦しささえ感じるのだが、ほとんどの施主はそれで満足している。これまでの住まいが、冬寒く雪に悩まされてきたのだからそれも無理はない。しかし、私はあえて、雪や寒さを過大評価しないようにしている。冬の過大評価は、春・夏・秋の過小評価につながる。例えば、九州では毎年台風の被害を被り、東京であれば夏の酷暑は耐え難い。弘前の雪や寒さも、これらと同じ普通の自然現象の一つと考えても良いのではないだろうか。そう考える事で発想の自由度は増し、次のステップが見えてくる。

もっとも、私がこんな生意気な事を言えるのも、先輩方の技術的な積み重ねがあっての事であり、雪と寒さ対策に設計の多くの労力を割かざるを得ないのも事実である。つまり、雪と寒さに対する建築的破綻が許されるはずもないが、そのことで空間としての質が犠牲になって良いはずがないのである。あくまでも雪と寒さは数多くある設計条件の一つであり、当たり前に解決しなければならない問題なのである。

しかし、この地域に漂うもっと大きな建築的閉塞感は、入札問題である。ご存じの通リ、地方自治体は建築の設計者をほとんど入札で決めている。施工の為の入札であれば、私は否定しない。図面があり、仕様書があり、監理者もいる。従って、出来上がる建築は一定のレベルを保証される。しかし、設計の場合、その保証がまるでない。役所の入札仕様書で決めているのは概略の床面積と図面枚数程度であり、これで果たしてどうやって建築のレベルが保証されるのであろうか。社会的文化財である建築の設計者を決めるのに、金額の多寡で決める入札方式が馴染むとはとても思えない。無責任にさえ感じるのだが、どうであろうか。

例えば、どこかに広場を造りそこに彫刻を置くとする。果たして、材質と大きさを決め、彫刻家を呼んで入札をするのであろうか。そんな話しは聞いた事がない。建築も同じである。いや、それ以上であるともいえる。彫刻を取り替える事は出来ても、建築を取り替える事は出来ないし、その影響力は彫刻以上である。建築の設計者は、その内容によって決められるべきものであって、金額の多寡で決められるべきものではない。例えばプロポーザル方式であり、コンペ方式であり、QBS(資質評価)方式であり、或いは第三者機関による設計者選定委員会である。限られた予算の中でより優れた物を創るという事は、地域に対し責任ある立場の自治体にとって当たり前の職務ではないのだろうか。要は、行政の意識の問題である。


2. すばる103 ここをクリックして下さい
ここで、実際にプロポーザル方式でやらさせて頂いた仕事を二つ紹介する。
これは、弘前市に隣接する相馬村が、新たに整備した103戸の住宅団地「すばる」に計画した集会所である。東隣は、築山のある芝生広場に接している。「宴の広場」は既存の芝生広場と一体化し、築山と集会所で柔らかく囲まれた形態である。「宴の広場」と集会所の中間領域である「こみせ」は、雪・雨・夏の太陽から守られた空間を提供すると共に、内と外との活発な動線を促す機能も合わせ持つ。「こみせ」と平行する「広縁」は、外からも気楽に入れるように一部を大きな「土間」としてある。

基本的には木構造であるが、開放的な空間を実現するため、34本のRC柱に全ての水平力を負担させ、壁を構造から開放している。屋根は、テンション材としての鉄筋と方杖との組合せで、軽やかに雪荷重を受ける。中折れの片流れ屋根は「宴の広場」への方向性を暗示すると共に、光と風を内へと導いている。

この集会所の建設のために、計5回のワークショップが開かれている。3回目まではどのような集会所が良いかが話し合われたが、この時はまだ設計者が決められていない。ここで今までのワークショップに参加した建築家5人を対象にプロポーザルが行われ、公開審査を兼ねた4回目のワークショップで幸い我々の案が採用された。5回目は、「みんなで名付け親になろう」と題して施工中に行われている。館名は「すばる103」、室名は「わいわい」「のほほん」など、楽しい名前が付けられた。

ここでは、毎年夏祭りが開催されており、いつも案内状が届く。私も家族そろって、差し入れ持参で参加させて頂いている。「こみせ」には様々なコーナーが設けられ、「宴の広場」に敷かれたシートの上には談笑の輪が所狭しと出来る。内外の空間を自由に使う様は、私の予想以上である。

果たして入札で私共が設計者として選定されていたならば、このように毎年夏祭りに呼ばれるであろうか。これだけの信頼関係が、住民との間に築くことが出来ただであろうか。


3. 家族交流施設「悠遊」 ここをクリックして下さい
同じくプロポーザル(県内公開)によりやらさせて頂いた、八戸の青森県立はまなす学園の増築及び改修についても紹介する。
この計画は、肢体不自由児施設としての機能に、さらに重症心身障害児(者)施設としての機能を追加することを目的としている。既存改修は一般病棟である二病棟を重症心身障害児施設へ転換させる事と、施設全体の使い勝手の経年変化に伴う機能上の不都合に対応させる為の「対処療法」の二つの側面がある。施設の運営を継続しながらの改修である。機能面を充分満足させることは勿論だが、重度の入所者が居住する状況での工事であるから、振動・騒音・工期・安全等を十分すぎる位十分に配慮する必要があった。

増築は、新規に展開する重症心身障害児(者)通園事業(B型)を行う為の家族交流施設「悠遊」である。ここに通う障害児(者)の障害は重度化・複合化し、家族は不安と期待を抱えている。こうした状況に十分配慮した上で計画する必要があった。増築の家族交流スペースは、大きな空間とすることで施設としての一体感と空間的シンボル性・施設への期待感の高まりを演出する事を心掛けた。そのことで、障害児(者)とその家族の不安感・期待感に応える事が出来る。又、既存の建物に囲まれた狭い敷地ではあるが、敷地条件を深く読み込み、四周の「あまった空間」を最大限活用する事を心掛けた。そして、自然の光と風を十分満喫出来るよう、建築を出来るだけ外に開いた。


4. 自由ヶ丘の家 ここをクリックして下さい
3つ目は住宅を紹介する。
土地があって、それに合わせた形で建築が創られてゆく。普通はこのような順序になるが、この住宅の場合には全く反対であった。勿論、最初は土地もありそれに合わせた計画をしていたのだが、8月になった段階で、ある事情からそこには建てる事が出来なくなった。施主は自分の年齢からその年の12月末には着工する必要があり、無理であればあと数年は建てられない。しかし、この計画案を気に入り、模型を毎晩のように眺めていた施主は諦めない。なんとしてでもこの家を建てる、この建築にあった土地を探すと一念発起した。こうして探し当てたのがこの土地である。土地に合わせた微調整は必要となったが、むしろ、以前計画していた土地よりもピッタリに思えるような立地条件である。

話は変わるが、一般に住宅というものを考える時「これがいい、こうしたい」と考えることが多いが、視点をずらし「これでいい、これで十分」と考え直すことで、新しい可能性が見えてきたような気がする。素材の種類は出来るだけ少なくし、見えるものは隠さず見せる。建具は出来るだけ減らし、家財道具は無理に隠さず見えていた方が楽しい。外断熱であれば内装はいらない、しっかりした構造をそのまま見せ、配管・電線も現しの納屋のような空間で十分なのではないか。必要最小限の間仕切りに囲まれた大きな空間は、極めて快適である。余分なものをどんどん削ぎ落とすことで、住宅の本来持っている心地よさ(あずましさ)が引き出せる。そんな考え方を、施主と共有しながら計画を進めることが出来た。

ハウスメーカーなどと異なり、我々のような設計事務所に依頼する施主は個性的な人が多い。又、自分では普通だと思っている人でも、よくよく話しをしてみると豊かな個性が必ず見えてくる。住宅の設計は、施主の個性探しでもある。施主が個性的であれば建築家も新たな発想が求められ、自ずと建築も個性的なものとなる。


5. 「建築教育」を考える
結局、建築家にとって大事なのは建築に対する態度、生き様であると思う。建築の対象を、グローバルとかローカルとかに区切る必要はない。現にグローカルという言葉がある位であり、両者は渾然一体である。そして、建築に対する思い入れが多ければ多いほど、それを実現する時に困難を伴う。その困難から逃避するか、或いは立ち向かうかで建築及び建築家の存在意義がまるで異なったものになる。果たして生き様というものを、現在の建築教育の中で伝える事が出来るのであろうか。

大学教育の中で、その一端を修得すると言うのであれば二つの方法が有力である。一つは設計課題である。学生の創作意欲を駆り立てる課題と、より高いレベルに導くエスキースである。そして、現実にある敷地を対象とし詳細に調査分析することも課題とする事と、二つ目とも関連するが課題と同じような機能の建築を雑誌から選び出して分析させる事である。一つの課題に対し、様々な考え方と無限の可能性、及び、そこに至るまでの建築家の格闘の軌跡が読みとれるはずである。

二つ目は、現代の建築家の生き様を学ぶ事である。残念ながら、このような授業を一般カリキュラムの中で行っているという話しはあまり聞かない。しかし、授業に限る必要はなく、普段学生と接する中でも十分可能である。現在出版されている建築雑誌を、研究課題としてもかまわない。一つ一つの作品に、現実というものに立ち向かう建築家の生き様が投影されている。地方都市という制約はつきまとうが、活躍している建築家の話を聞く機会や、優れた建築を見て歩く機会を多数設ける事も大事である。

いずれにしても、学生自らが建築家を目指すのだという強い意志と、学生同士の切磋琢磨は欠かせない。その機会が学内で不足しているというのであれば、外に出て自ら生き様を学ぶしかないと思うのだがどうであろうか。






 ■2006年6月5日 建築家 前川國男 について

ここ数年、弘前の近代建築に関わることが多くなってきた。最初は、ある雑誌社の企画で近代建築に深く関わった堀江佐吉、今和次郎、前川國男の三人について語り合う対談であった。それから、今和次郎展に伴って企画された対談と、東京のギャラリー主催の近代建築を巡るツアーに案内役が続いた。そして現在、NHK文化センター主催の「前川國男の作品見て歩き」という講座に、講師の一人として関わる事となった,等々である。

今回、講師をするに当り、東京ステーションギャラリーと弘前市立博物館で行われた前川國男展に足を運び、前川國男について書かれた本を何冊か読み返してみた。それでも物足りず、前川の東京文化会館・東京都立美術館・埼玉会館・埼玉県立博物館、前川の師匠ル・コルビュジェによる西洋美術館(彼の3人の弟子前川國男・坂倉準三・吉坂隆正が協力し後に前川の手で増築を行っている)、同じく前川の師匠アントニン・レイモンドによる聖アンセルモ目黒教会に足を運んだ。以前から凄い人だとは分かっていたつもりだが、今回改めてその偉大さを再確認し、再認識した。

 □ □ □ □ □ □ □ □ □

前川は東京帝大を卒業してすぐ、パリのル・コルビュジェの門を叩き2年間そこで修行している。コルビュジェは、言わずと知れた近代建築の巨匠である。ここで前川は、近代建築の理念とその美的イメージを、そして何より建築家としての生き様を身につけて帰ってきた。しかし、当時の日本は、まだ旧態依然の体制である。前川は近代建築の旗手という重い使命感から、時には走り、時には立ち止まり、近代建築を確立するために格闘を続けた。決して逃げることのないその生き様は、「近代建築の闘将」と言われた。

私が大学で建築を学び始めた頃、覚え知った多くの建築家の中に前川國男があった。それらの中で前川の作品はどちらかというと地味な存在であり、正直なところ退屈に思えた。実際、弘前市民会館や博物館を見ても、その第一印象が大きく覆ることはなかった。

しかし、実社会に入り建築を設計監理する立場となって、その印象は徐々に変わっていった。前川の建築は時間の経過と共に朽ちることはなく、その空間の豊かさと確かな存在感はむしろ深まっていくように感じられる。生誕100年という事もあろうが、先の見えない不確かな今日に於いて、前川が再び高く評価される所以であろう。

 □ □ □ □ □ □ □ □ □

前川がもう一つ高く評価されているのは、建築家としての生き様である。彼は、絶えず建築家としてのあり方、職能について深く考えそして行動してきた。日本が、そして建築が徐々に近代化していく中で、建築家の地位があまりのも低いままであることに怒り、嘆き、建築家としての「自由な立場」を獲得すべく闘ってきた。建築家の存在が不確かなままでは、建築の質も上がるはずがない。前川のお陰で、改善された部分は多々ある。もし、前川がいなかったらと思うと、ぞっとする。しかしながら、ほとんど進展の見られない問題も多く残されている。

例えば入札問題である。ご存じの通リ、大部分の公共建築は設計者を入札で決めている。図面があり、仕様書があり、監理者もいる施工の為の入札であれば、出来上がる建築は一定のレベルを保証される。しかし、設計者の場合、その保証がまるでない。役所の入札仕様書で決められているのは概略の床面積と図面枚数程度であり、これで果たしてどうやって建築のレベルが保証されるのであろうか。社会的文化財である建築の設計者を決める方式が、金銭の多寡によって決める物品購入と同じ入札方式であるとは信じ難いことである。

前川の志を継ぐべく、少なくない建築家(私も含め)が入札を辞退し、ごく一部の行政が入札によらない建築家の選定方式を採用しているが、残念ながら大きな流れとはなっていない。前川が弘前の公共建築を設計する時も特命であったが、今はその方式を作用していない。

もう一つの大きな問題は、設計施工である。利益至上主義の施工会社に、設計という行為が従属するのは多くの問題を抱えている。それは、昨今の構造計算書偽装問題を見ても明らかである。施工とは独立した立場である建築家が設計し監理することが、様々な問題を解決する第一歩であると言う当たり前のことが世間にはなかなか浸透しない。残念である。

しかしながら、最大の問題は己自身である。前川の事を調べそして考えている時、「前川の生き様はこうだった。それに対して、お前はどうなんだ?」と、絶えず問い掛けられているような気がしてならなかった。大きな宿題を背負ったような気がする。


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  1. 1993/01/02(土) 00:00:00|
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